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無縁の原理
2019 / 07 / 25 ( Thu )

今回 れいわ新選組から出馬した東京大学 東洋文化研究所の教授である安富歩さんのブログを読んで、心が震えた。

内側から見た「れいわ新選組」

https://anmintei.net/a/688‬

ものごとを、カチカチと固めていく、手続き重視の姿勢そのものが、暴力性を帯びる。なぜなら、たとえ実質的に意味があるものでも、この手続の都合に合わないものであれば、排除してしまうからだ。そうして、意味のあるものが排除され、無意味な書類だけが蓄積されていくのが、現代社会の病理であると、私は認識している。山本太郎氏もまた、その病理を心底嫌っているのだと、感じた。


『孫子』の兵法に、「無形」という概念があるんです。それは「何も決めていない」という状態のことで、何をどうするか決めていなければ、敵は、どんな優れた司令官でも、どんな手練のスパイでも、こちらの意図を読み取ることはできない、と孫子は言っています。無形が一番強いんです。」と言った。




これは代表である山本太郎と公示日の第一声をどこで挙げるか未定と言ったことに対して。

このことは非常に納得できるし、自分が怠慢から色々なことを決めないという言い訳をする必要がないという安堵感を覚える。これは冗談だけど。笑


そしてこう続ける





日本中世史の大家であった網野善彦は、日本社会における自由の根源を探し求め、「無縁」という概念に到達し、「無縁の原理」が人間社会には作動しているのだと主張した。私の考えでは「無縁の原理」とは、人間同士の関係、すなわち「縁」が腐れ縁になってしまったとき、その縁を断ち切って離れるのは当然だ、という人類普遍の感覚のことである。この無縁の原理が作動することにより、人間の自由が確保され、人々の関係の質的劣化を防ぐことができる。

 そして更に、この無縁の原理を身に帯びた人間を「無縁者」と呼ぶ。無縁者とは、普通の人間には適用される規則が、適用されない者である。網野が挙げるのは、たとえば、天皇や上皇といった、極めて身分の高い人物に直接に交遊する白拍子、僧侶、歌人といった人々である。彼らは、無縁者であるがゆえに、高い身分の人と直接に口をきくという、有縁の人であれば決して許されないはずのことが許される。

 この無縁の原理は、近代国家では認められない。法律は如何なる場所であっても、誰であっても、等しく適用される建前である。無縁の原理はもはや、息を止められたかのように見える。しかし、それは無縁の原理が、「原理」である以上、ありえない。均一に加えられる抑圧に息苦しくなった人々は、無縁者の存在を求める。たとえば、「フーテンの寅さん」や「釣りバカ日誌」が多くのサラリーマンの心を捉えたのは、こういう映画の主人公が現代の「無縁者」だからである。




学校の校則にずっと疑問を感じている。
決まりごとというのもあまり好きではない。

一緒にいたい人といればいいと思うし、自己責任という言葉も好きではないけれど、自分で覚悟した上で色々なことを主体的にやればいいと思っている。

規則や罰則があるからやる、やらないということではなく。


私はずっと無縁者でありたいと思って生きてきたんだ。
そしてこれからも。





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