誰もがもつ、他者との関係における「強者性」と「弱者性」について
2022 / 03 / 15 ( Tue ) yahooニュースの中に興味深い文章を見つけた。
誰もがもつ、他者との関係における「強者性」と「弱者性」」について、40過ぎてから軽度のADHDと診断された小島慶子さんの書いたもの。 彼女に対してADHDへの差別をしていないという意志なのか、励ましなのか、「気にしないよ」「単なる個性」「才能ある証拠」と言われることがあるという。そのことに対して、下のように続く。 ・・・・・ 相手が自分とは異なる特性や属性を持っていることがわかったとき、咄嗟(とっさ)にポジティブなことを言わなければと思うのは、ごく自然な、善意ある反応です。私もそういう「励ましと共感」の言葉をこれまでいろいろな人に返してきました。 でも、障害やジェンダーや人種などで自身がマイノリティであることを実感する経験を重ねるうちに、ときにはそうした励ましの言葉で複雑な気持ちになることもあるとわかってきました。 例えば、これは経験した人も多いと思いますが、女性に対する「励ましと共感」。「女性の感性は素晴らしい」「本当は女性の方が男性よりも優秀」「男は女性の手のひらで転がされている」などは定番ですよね。女性が女性に言うこともあります。 でも、社会の著しいジェンダーギャップや性差別の現実を知れば、そういう言葉こそが問題だとわかります。女性を励ますものは、女性礼賛の言葉ではありません。女性ならではの感性ではなく個人の能力に期待すること、優秀な女性を正当に評価すること、女性に私的な領域でのみ裁量を与えるのではなく社会的にも責任ある立場を与えること、それらをただ目指すのではなく、いますぐ確実に実行することが、女性たちの力になるのです。 だからもし本気で女性に共感を示したいなら、「女性、いいよね。応援してるよ」と言うのではなく、男女が著しく不平等な現状を認めることが第一歩です。その上で、相手を人として大切に扱い、「何か困っていることはありますか。どんな助けが必要ですか」と話を聞いて、自分にできることをやることです。 これは「アジア人は優秀だ」「障害は個性だ」などの定番の「励ましと共感」にも当てはまることです。誰もが、他者との関係においてなんらかの「強者性」と「弱者性」を持っています。強者は安易に「私たちは同じだよ」「あなたは素晴らしい。応援してるよ」と言いますが、弱者が生きている現実は見えていません。 私も自分が強者や主流の立場に身を置いているときにはこうした発想になってしまいやすい。マイノリティの立場にあるときの言葉に対する感受性と、マジョリティの立場にあるときのそれとは異なるのです。 ・・・・・ 先日、朝井リョウさんの「正欲」という本を読み終えた。 ストーリーがどうのというより、登場人物のセリフがいちいち刺さる。 これまで意識して生きてきた。音楽療法士の資格をとるためにも色々勉強した。 底辺校と呼ばれる学校でもいろいろな生徒と接してきた。 障害やひとそれぞれの痛み、苦しみは多岐にわたること、それらは本人も気が付いていないことさえあること。 環境がそうさせていること、本人の責任ではないこと。 寄り添うなんて一番安易に使ってはいけないセリフ 共感したいと思っても同じ痛みを味わったことのある人にかわからない痛みがある。 などなど それでも マジョリティの中にいて、マイノリティを理解しているリベラルな自分に酔ってんなよ? と言われたような気がしてならなかった。 ![]() スポンサーサイト
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