ドッジボールとコミュニケーション
2023 / 09 / 27 ( Wed ) 子供の頃ドッジボールが本当に嫌いだった。
胸でバンと音を立てて取る女子もいる中、みるからに運動神経が良くない私はいつもすぐ狙われて当てられ、外野にいた。 むしろ早く当てられて外野でのんびりしていたいと思っていた。 もともとスポーツ自体あまり好きではない。 やらなくても観戦なら好き!という人もいるが、テニスや卓球の試合をみていても、なぜ相手の取れないボールをなげるのか? 相手のいない場所めがけて打ち、取れないと喜ぶというあの精神がなんとなく好きになれない。 いつも負けるから負けた方の気持ちを考えてしまう。 皆、必ず勝ち負けとはそういうものだというが、勝つことってそんなに大事なことだろうか? 最近興味深い文章に出会った。 「ダブルバインド」という言葉がある。 これは「二重拘束」ということなのだが、例えば、「自分で考えて動け」といわれ、考えて行動したら「勝手なことをするんじゃない」と怒られたり、忙しいときに話しかけたら「あとにしてくれ」といわれ、あとでもう一度いうと「なんで早く言わなかったのだ」と怒られる。 どちらにせよ怒られるといったことだ。 これをされると、言われたほうは、「じゃあもういい」となってしまう。 このことが頻繁に起こる企業や組織はそのうち崩壊するという。 仕事以外でダブルバインドでなくとも、なにか思い通りにいかないことがあると「じゃあもういいよ」とすぐ言う人がいる。 これは一方的にコミュニケーションを拒絶している状態。 「あなたとこれ以上話をしたくありません」と言われ、言われた側は絶望する。 コミュニケーションとは相手とのキャッチボールであるので、話をするときに感情的になり、「答えられない質問を投げかけていないか?」 を確認する必要がある。答えられない質問や言葉をぶつけるのは感情をただ相手にぶつけることが目的となったドッジボールと同じ。 といった内容。 まさに! ホントそう。 私はコミュニケーションをしたいのに、相手から一方的にボールをぶつけられることが嫌なのだ。 痛いじゃないか、悲しいじゃないか。 ぶつけた相手は喜んでいる。決して申し訳ないけどあてるよ?という感じではない。 答えられない質問をしない。 これは相手のいない場所めがけてボールを打つのと同じ行為であり、私がスポーツを嫌う原因でもある。 私も気をつけよう。ドッジボールは弱いくせに、言葉をぶつけていることがあるだろうから。 とにかく、「もういい」 これは堪える。 こたえや意見の出しようがない。 だめなら代替案を出すとか、こういういい方はしないでほしいとか、こういうのはやめて、とか、 建設的な話をしようではないか。 そこに行きつくまでにいろいろな議論がなされて、最後に「もういい」ならまだしも、何も話していないのに一方的な終わらせ方は悲しいしずるくないか? 共感を求めているわけではない。 でもどこかで繋がっていたいし、話がしたいのだ。 意見が異なろうとも、どう違うかをいちいち話したいのだ。 全て理解しあえなくてもいい、相手の考えが知りたいし、むしろ違うことをネタを酒のアテにしたいのに。 話し合い、許し合うことが愛なんじゃないのか? これは誰に対しても、というわけではないのだけどね。 虚しい気持ちと秋の空 スポンサーサイト
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